ヤクート小史

 ヤクートのロシア国家への編入は、この地方の原住民族の運命にとって歴史的な意義をもつものでありました。17世紀の初めに、コサックの探検家たちはレナ川の沿岸に到達しました。ロシア人たちが礎をすえたヤクーツク、ジガンスク、ベルホヤンスク、ザシベルスク、中部コルィムスクなどの越冬地や要塞集落は、ロシア移住民のアジア北東部、極東およびアメリカ北西部への前進基地となりました。
 1632年にレナ川の右岸に、後のヤクーツク市、現在のサハ(ヤクート)共和国の首都の起源となったヤクーツク要塞集落の基礎がおかれ、この年はヤクートがロシア国家に編入された年とされています。1638年、イルクーツク県にヤクート郡が設けられ、これは後にヤクート地方(1775年)、さらにヤクート州(1784年)と変遷しました。

 18世紀にこの地方の原住民の広汎なキリスト教化が起こりました。ヤクート諸民族の国民教育と啓蒙、民族語による文学の出現、異なる文明の相互作用プロセスの深化などは、正教会の聖職者たちの活動に伴うものです。
 ロシア系移住農民は、北方民族と触れあいながら北方農業の基礎を築きました。
 ヤクートの歴史のもう一つの面は流刑であります。流刑はすでに1640年代から始まり、19世紀からのヤクート流刑は、その大部分が政治犯を対象としています。デカブリスト(12月党員)、1863年のポーランド蜂起関係者、ナロードニキ運動家、社会民主党員などがヤクートに流刑されていました。

 20世紀以前には共和国の経済基盤となっていたのは、畜産、狩猟業、小規模の農耕、マンモスの骨の採取、ロシア領アメリカへの貨物輸送、レンスク金山の補給でありました。ヤクートは経済的には後進地方、政治面では無権利状態の辺境として20世紀の新時代に入りました。
 20世紀の20年代になって突破口が開かれました。1922年4月27日に、ロシアソビエト連邦社会主義共和国の一員としてヤクート自治ソビエト社会主義共和国(YASSR)が形成された。この政治的決定によって、自治共和国の枠内で国家体制を築くための法的、憲法上の基礎が与えられました。

 ヤクート史のソビエト時代は、その天然資源の大規模な産業開発と結びついており、その始まりとなったのは20年代におけるアルダン金産地の開発であります。30年代には北洋航路の運行が始まり、レナ川の河口にチクシ海港が建設され、以前には到達困難であった共和国の諸地方は船舶航路と航空路によって結ばれました。50年代にはいると、共和国西部のダイヤモンド産地の発見と共に、強力なダイヤモンド採掘インフラが整備されました。


 ヤクート史の新しい段階は1990年9月27日に始まりました。この日、全共和国住民の積極的な支持をえて国家主権宣言が布告され、1991年10月には共和国大統領職が設けられました。1991年12月にはミハイル・エフィモビッチ・ニコラエフがサハ(ヤクート)共和国初代大統領に就任しました。同時に共和国名もサハ(ヤクート)共和国と改まったのです。
 2002年の選挙の結果、、共和国の大政治家、新思考のマネージャーで、株式会社アルロサを率いるV. A .シティロフがサハ(ヤクート)共和国の大統領になりました。